人類右脳進化 鎌田東征 1997年    脳トレ エルピス知力トレーニングトップ
プロローグ


人類の進化
 本書のタイトルは「人類右脳進化」です。人類の進化を簡単に振り返ってみます。
 人類と呼べる生物が地球上に出現したのが、仮に今から百万年前だったとします。最初の九十万年間は急激な進化を遂げ、人間の脳は倍以上の重さになる生物学的な変化でした。後の十万年間は生物学的な変化は起きていませんが数千年前に文字が発明されました。これは人類の進化と呼んでもよい変化でした。
 「生物とは、情報を蓄え、それを後の時間に伝える存在である。」と私は定義します。このような生物の定義を聞いたことがありませんが、一つの説として読み流してください。
 地球上に、数十億年前に、原始的な生命が誕生しましたが、ただの化合物と原始的な生命との違いはこの定義で、説明できるのではないでしょうか。もしも親から子へ受け継がれる情報が同じであれば、化合物と大差がない原始的な生命から、人間に達することはありません。生物学的な新しい情報がDNAに蓄積され、世代を重ねるごとにその情報が増え、また洗練されていくことが進化です。 人類が出現する以前は、世代を越え受け継がれる情報は、DNAに刻まれた生物学的な情報だけでしたが、人類の誕生により、脳内の情報が言葉を通して、知識として世代を越え受け継がれるようになりました。これが人類の第一進化です。
 数千年前文字が発明されました。人間は脳という内部記憶装置だけでなく、文字という外部記憶装置を手に入れたのです。文字の発明により、人間が処理できる情報量は飛躍的に増大し、文明が生まれました。これが人類の第二進化です。
 人類の第三進化とは何か。新たな千年期を迎えようとする今、人類右脳進化が起ころうとしています。
 人間の脳の容量はこの十万年間ほとんど変化していません。おそらく、知能もあまり変わっていないでしょう。人間の脳で知的活動に使われている部分は全体の数十分の一にすぎません。特に右脳は、一部の天才を除いてほとんど使われていません。この右脳を全人類が使えるようになれば、人類の進化といってもよいでしょう。これが人類右脳進化です。
 これまでも、右脳を使う必要性はいわれてきましたが、実際に右脳を簡単に開発できる方法は見つかっていませんでした。なぜ今人類右脳進化が起きようとしているといえるのか、だれもが右脳を使えるようになる方法が、これから続々と見つかりそうだからです。私自身本書で紹介する様々な右脳開発法を生み出しました。画期的なものが発見されたり、発明されたりした場合、たいてい複数の人がほぼ同時に考えているものです。たとえばベルが電話を発明したとき、ベル以外にもエジソン等数人がほぼ同時に電話を研究し発明したのです。たぶん私以外にも、現在世界で複数の人が、画期的な能力開発法を発見していると思います。
 西暦二千一年から新しい世紀、新しい千年紀に入ります。誰もが右脳を使える新世紀です。この本を手にとっているあなた自身が人類右脳進化に参加するのです。

ある2027年の日本
 人類右脳進化がこれから起こり、様々な新発見がなされ、新技術により人間を苦しめる問題か解決され、また人類が賢明になり戦争がなくなり、人類の未来は希望に満ちています。しかし、もしも人類右脳進化が起きなかった場合、三十年後日本はどうなっているかを以下に示します。

 日本は二十世紀末の不況から抜け出せず、二十一世紀初頭に起こった恐慌以降は完全に経済が沈滞したままであった。かつての繁栄が嘘のように、現在では一人あたり国民所得が世界第八十位に落ちてしまった。
 引虎素足(ひっとらすたり)は念願の首相の座をついに射止めた。
 文盲率五十パーセントの国民にとって、引虎の甘い声、バラ色の未来を約束する力強い演説はたまらなく魅力的だった。今回の総選挙で、引虎が党首をつとめる国民那智党はそれまでの二十議席から、一挙に過半数の議席を制した。
 やはり力強い演説ではあるが、引虎とは対照的に国民に忍耐と責任を求める毛根出雁治(けねでがんじ)が選挙直前に何者かに殺害され、毛根出の個人的な魅力に負う希望党は、今回の選挙で大きく後退した。毛根出亡き後、引虎にはおそれるものは誰もいなくなった。
 「さあ、これで何でもできるぞ。」引虎にはバラ色の、全人類には悪夢の時代が始まった。

 三十年後の日本で、文盲率が五十パーセントになるだろうとは、みなさん考えられないだろうと思います。ここで文盲率といっているのは、識字率とは異なります。おそらく三十年後の日本でも識字率はほぼ百%に近く、世界最高の国の一つだと思います。
 私のいう文盲率とは文字を読んだり書いたりできない人ではなく、文章を読んだり書いたりできない人の割合のことです。
 文章を読み書きできなくて、自分ではなにも考えることができず他人から与えられた指示通りにしか行動できない人が国民の半数に達する国は衰退し、やがて独裁者の登場となるでしょう。もしもこのままでいけば、日本はこのような国になってしまうのです。

十代の若者の学力
 私は大学卒業校、企業に五年間勤めた後独立し「エルピス塾」というこじんまりした学習塾を始めました。エルピスとは古代ギリジャ語で希望という意味です。
 塾を始めた当初は驚きの連続でした。現在の子供たち、特に高校生の学力が著しく低下しているのです。
 たとえば、中学一年生で習う英語の「He likes coffee.」を否定文にしなさいという問題で「He doesn't like coffee.」と正しい答を出せる高校生がどのくらいいるでしょうか。もしも私が塾をしていなければ、八割以上は正解が出せるだろうと考えるでしょう。
 実情は正解率が三割程度です。半数の高校生は「He isn't likes coffee.」とか「He likes not coffee.」といった間違いをします。残りの二割の高校生はこの質間をしても、まったくわからないのです。
 私の塾のある地域にはA,B,C,D,E,Fの六つの公立高校があります。このうちA高校の生徒ならば、正しい答が出せます。B高校とC高校の生徒の半数は間違います。D,E,F高校で正しい答が出せる生徒はめったにいません。E高校とF高校では英語の時間に、高校の範囲ではなく、ほとんどの時間は中学一年生の範囲しか教えていません。「He likes coffee.を否定文にしなさい」という問題は、いつも高校で習っていることなのに、正解が出ません。
 F高校のK君は、大学受験で必要な科目のうち、英語と社会はよくできるので塾で習う必要がなく、国語が少し苦手なので国語を塾で勉強したいといって私の塾にやって来ました。
 いくら英語が得意でクラス一番の成績をとっているといっても、大学入試に合格するほどの実カはないだろうと思い、英語をどの程度知っているか確かめるために、いくつか質問したところ、まったく答えることができません。最後に「This is a pen.」を日本語に訳しなさいというと、「this」とはどういう意味か尋ねました。「this」は「これ」という意味だと教えると次に「is」の意味を尋ねます。「is」は「〜です」という意味だと教え、同様に「one」は「一つの」で「pen」は「ぺン」だと教え、「This is a pen.」を訳させると「これです一つのぺン。」という答になりました。英語が得意だということには首をひねりましたが、国語が苦手だということは十分に納得しました。
 「13−9=4」は小学校一年生で習う範囲です。 「13−9」という問題を与えても五分以上、ただじっと問題を見ている高校生もいます。 (その前「7−3=4」は解けました。)分からなければ指を使ったり、絵を書いたりして考えればいいのに、じっと問題を見つめているだけです。
 「13×12」が156と正しい計算ができるのに、「13×10」はなかなか答が出せず、1430などの間違った答を出す中高生が数多くいます。
 英語は分からなくてもすむでしょう。算数や数学も現在では電卓があるので、必要がないともいえます。最大の問題は小学校の国語の教科書程度の平易な文章であっても、日本語の文章を読み書きできない高校生があまりにも多いということです。
 私の塾には大学入試を小論文だけで受けようという高校生がよくやってきます。小論文といっても、一部の大学を除き論文ではなく、実際には小学生の作文のような問題です。英語等の基礎学力はないが、国語は他の高校生と比べると自信があるという生徒が小論文で受験します。
 現在の高技生の国語カがどんなものかを知っていただくために、学力が平均以上の生徒と、学力が平均以下の生徒が書いた二つの小論文を以下に紹介します。現在の高校生が何を考えているか読み取って下さい。
 まずはE高校のY君が言いた小論文からです。Y君の学力は全国の高校生の平均よりも下になります。
 奉仕の精神について述べた文を読んで、「社会奉仕についてあなたの考えるところを六百字程度で述べなさい。」という問題です。

私は筆者の意見に賛成である。友人が不幸になる所やそういう場面に出くわせば助けるという行動を人間がやるべき行動だと思い筆者同様私も前から思っていた。
以前にも私は人間同志のもめ事にあたり、一人が一方的に負けている中で自分から助けに行こおとはせず、その人間が助けを求めるまでその様子をじっと見つめている状況だった。他にも老人が駅のプラツトホームに立ち肩から箱をかかげお金を入れてほしいと訴ったえている場面に出くわしても私や他の人達もみず知らずの様にささっと電車に乗ってしまった。
私は長い人生の中で、社会奉任すらも忘れてしまいこまっている人達を見捨てる写える立場でも写えられる立場でもない全く無視している人間に思えた。
この事から私は多くの人間が社会奉仕という言葉さえも忘れてしまっている人間が多いと私は思う。又最近の我々若い世代に到ってはまだ与えられている立場の中にいて、そこから一っこうに出よおとしない人間がここ数年多いんではないだろうか。
私達は社会奉任に対し、どういう働きかけをすればいいがどういう能度でこまっている人達に助けを差しのべてあげればいいのか。
私はその様なこまっている人達に多いに協力し合い人でも多くの助けなければならない人間を逆に助ける側の人間にしてあげれば、少しはなくなる問題でもあり これが社会奉仕なのではないか、と私は思います。
私達は人と人との助け合いの中で社会奉仕という行動がとても大切な事であり 人間が人生の中で多くの事柄を学ぷ中にこの行為はもっとも多くしなければならない事だと私は思います。

 次にP高校のR君の書いた小論文です。R君の学力は全国の高校生の平均を上まわっています。
 若者が頭を使わないことについて述べた文章を読んで、自分の意見を述べなさいという問題です。

私は今、高校生である。一般的にみたら若者の1人である。しかし、私の回りの若者も私自身も無知すぎることは残念ながら認めなければならない事実である。いや正確に言えば、無知ではなくアホなのだ。若い世代である私達の日常会話は程度はともかく、言葉の数がない、知らないのだ。本当にごく限られた言葉しか使えない。その事が若者がいかにアホであるかを一番物語っている。
なぜ若者はこんなにもアホなのか。理由は大きく2つあると私は思う。書く前に私は若者がどの範囲なのかを決める。その範囲は今の中学生から40代の大人までのことを指す。
まず第一にほとんどの学生は学校が何なのか知らない。学校は様々な事を学ぶ所である。知識ばかりでなく、人間関係、夢なども学ぶ。しかし学力の高い者は知識を覚えることで精一杯である。逆に低い者は学校に異常な反抗心を持っている。学カの低い者は相手にされないからだ。なら普通の者はどうか。何も考えていない者がほとんどである。
第二にはあまりに名声を気にする40才ぐらいまでの人が多いことである。そういう人に育てられた子は絶対に頭はつかわないであろう。なぜなら小さな頃から知識を学ぶことしか知らないからだ。いや知ろうとしないという方が正しいかもしれない。親はどうか、大人であるから正しいのだといわれればおしまいだ。そんな者に自分の頭を使うことの重要性をいくら説明しても理解しないだろう。いや認めないであろう。その事は自分の名声を著しく傷つけるからだ。
ならどうすればよいか。答は3つある。一つは無知な者をコントロールする独裁者が出現すること。しかし、それほどの独裁者は出てくるには一つしか方法はない。例の宗教のように、自らを神としなければならない。それに下手をすればその独裁者のせいで日本は破滅するだろう。2つ目は戦争が起こることだ。そうすれば皆命について初めて考えるであろう。そうすれば自分達はアホさが分かるだろう。そして自分達の頭を使うことの重要性分かる、しかしそれもつかの間、50年もたてば今の日本のようになるか廃れたままになってしまう。
3つ目は頭を使うことを賢者が教えてあげることだ。初めから。そのためにはまず賢者が命を捨てなければならないことを必要である。それにそんなに物分かりのいい人ばかりではないだろう。下手に人権をつかわれれば裁判で負けて精神医にかかり、投獄という事だってあるかもしれない。それでもいいという人は少ないし、その間にも日本は衰えているだろう。

 大学を受験しようという高校生の多くが、この二つの文に似たような文を書きます。小論文の問題は受験生にある文章を読ませ、それについての感想を書かせるものが多いのですが、ほとんどの高校生は、筆者の意見に賛成だと書きます。自分の頭で考えたことを書く者はまれです。
 先程のY君の文章で、自分の意見を述べているように見える部分は、もとになる文章に使われている言葉を、本文の内容とはまったく違う意味で使い、つなぎあわせたものであり、そのため意味をなしていないのです。
 R君の文章で、三つの対策として述べられていることは、もとになる文章では、このままでいけば独裁者が登場したり、戦争になったりするという警告を、文章を読み取る能力がないために、独裁者や戦争が肯定的なものであると曲解して書いたものです。
 もしもヒットラーの「わが闘争」から小論文が出題されたとしても、多分過半数の受験生が、正しいことが書かれていると思い、「私は筆者の意見に賛成である。」と書くでしょう。
 また、現代の若者を批判した文章に対し、 「若者達にはもっと頑張ってもらいたい。」と書き、自分がどうすべきか触れない者が多いのも気になります。
 このような文章であっても、書ける生徒はまだましです。先程の例でも、文章らしきものを規定の字数で書いています。もっと学力の低い高校生であれば、二時間かかって「ぼくは」という三字だけ書いて終わる場合があります。
 文章を書くということは確かに難しいことです。では文章を読むほうはどうでしょうか。

 上図を見せ、「ゴンタはポンタをなぐった。」という文を高校生に示したとします。「ゴンタはAかBか?」という間題なら、多分九割以上の高校生が答えることができるでしょう。「ゴンタはポンタになぐられた。」の場合、答えられない高校生は増えてきます。「ゴンタは、ポンタをなぐった少女を愛している。」という文を示し、 「Bはだれか?」の質間にはおそらく過半数の高校生が「ゴンタ」と答えるだろうと思います。
 中学生に国語の問題を解かせるとき、出題されている本文のほうをまったく読まない者がかなりいます。本文を読むようにいっても、書いてあることが分からないから読んでも同じだといいます。
 文章を生徒に読ませ、生徒が理解しているかどうかを見るには、主語が何かを尋ねるのが最適です。書かれている内容の半分でも理解していたら、主語が何か答えることができます。
 「創造は日常生活の中にもなくてはならないものだし、現に、人は日々の生活の中で小さな創造を積み上げ続けているのである。」の下線部の主語は何か、という高校の入試問題を中学三年生の授業で取り上げたとき、十二人のうち「人」とか「人は」と答えた者は一人もいませんでした。多分「主語」という言葉が分からないのだろうと思い、「SがOをVする。のSは主語、0は目的語、Vは述語助詞という。」、「『SがOを積み上げ続けでいるのである』のSを尋ねているのだ。」と何回も説明したのですが、そのことはみんな分かっているようなのです。しかし、「創造」とか「生活」という答が多く、結局正解が出ませんでした。この十二人の中には進学校といわれている高校へ進んだ者もいるのです。
 中学三年生の理科の問題で「100グラムの水に20グラムの食塩をまぜた水溶液Aと、200グラムの水に30グラムの食塩をまぜた水溶液Bがある。AとBではどちらのほうが濃度が大きいといえるか。」という問題に「いえない」という答を書く生徒もいます。
 「794年、桓武天皇が、都を平安京(京都)に移す。 問い:794年に、平安京に都を移した天皇は誰か。」
 これは中学生用の教材の一部です。日本語を少しでも読める者ならば、歴史をまったく知らない者でも、この質問に答えられるはずですが、数分間この問題をにらんで「むずかしい」といっている生徒に、答は桓武天皇だと教えた時には、おもわずため息がもれました。
 これまでにあげた例は学力の低い特別な生徒だと思われるかもしれません。それでは次の例はどうでしょう。どこで読んだか忘れましたが、NHKの入社試験に「皇太子殿下はカレーライスを食べられました。」という文は正しいか、正しくなければどう直せばよいか、という問題が出たそうです、NHKの入社試験を受けるのは一流大学生でしょう。しかも、今の高校生よりも五年以上前の学年です。私は塾を始めて八年になりますが、この八年間でも高校生の学力が低下したのを感じます。現在の平均的な高校生よりもはるかにレべルの高い学生の答です。出題者は「皇太子殿下はカレーライスをお召し上がりになりました。」というような答を期待していたのでしょうが、こんな答は少なく、「カレーライスではなく、ライスカレーだ。」とか、「食べられたのは皇太子ではなく、カレーライスのほうだ。主語が違う。」とかいう答が多かったそうです。一流大学出身者でも「れる」、「られる」の尊敬の使い方を知らないのです。
 一九九七年の大学入試センターテストは新課程となってから始めてのセンターテストでした。新課程では、旧課程と比べ高校で習うことはかなりやさしくなっており、センターテストも前年度の問題よりずっとやさしいものでした。問題がやさしくなったのだから、平均点は上がりそうなものですが、平均点は変わっていないのです。たった一年で高校全の学力がまた落ちてしまったのです。
 このセンターテストを受け、国立有名大学のK大に合格した塾生がいます。塾生が合格した喜びよりも、あの学力でK大に合格するとは、と日本の将来を考え不安になってしまいました。
 文章の読み言きができなくなった若者の、会話能カはどうでしょう。
 学力の特に低い高校生の場合、ほとんど言葉が話せない者がたまにいます。私が受験科目について質問します。「君はT大を受けるそうやが、科目は何で受けるんかな。」「・・」「英語、国語、社会、数学、理科のどれとどれで受ける気や。」「うう、こく」で終わり国語一科目で受験することが分かるのです。
 私の出身地は大阪です。私が大学に六年間(?)通っていた頃、通学の電車内は楽しかったものです。電車に乗っている見知らぬ女子高生達の会話が「ものごつつおもろい」あるいは当時の流行語でいえば「メチャンコおもろい」のでした。女子高生達はへたな漫才師よりよっぽどおもろいことをしやべくりあい、まわりの人達が笑うと「受けたかな?」という表情で、得意そうに、にっと笑ったものです。私が初めて東京の電車に乗ったとき、車内でだれもしゃべっていないのが不気味だったのを覚えています。
現在の高校生は「チョー」とかいってへらへら笑っているだけで、助詞を抜かした会話は、本人達以外には何をいっているのかさっぱり分かりません。(多分本人達にも分かっていないのだろうと思います。)現在の高校生達が電車の中でしゃべっているのを聞いても、 「チョーマジムカツク」です。

頭を使わない若者達と独裁者の登場
 私の塾では、高校生の理数科目は個別指導で教えています。私は答や解き方ではなく、できるだけ自分で解けるようにするために、数学的な考え方を教えます。指導する側としては、答や解き方を教えた方が楽なのですが、考えるという習慣が最も大切だと思うからです。しかし、答や解き方を教えてくれないといって、すぐに塾をやめる生徒がたまにいます。図を描いて考え方を教えていると、そんなことはどうでもいいから、答を書いてくれというのです。ただし、塾に長く通っている生徒は、学校の成績の低い生徒でも「先生、まだ答いわんといてや。自分で考えるし。」というように変わってきます。
 数学に関して中学生の例をいくつかあげます。
 「1/2+1/3=5/6 」が解ける生徒がいます。ところが、 「1/2+1/4」は解けないのです。
 なぜ、 「1/2+1/3」が解けるのに「1/2+1/4」は解けないのか尋ねると、「だって、1/2+1/3=5/6は知ってるけど、1/2+1/4は知らないもん。」との返事が返ってきます。考え方や解き方ではなく、答を覚えようとしているのです。
 「二次方程式 X−3X−10=0を解きなさい。」という問題で「X=−2,5」が解け、「不等式 2X+4>X+7 を解きなさい。」という問題で「X>3」と解ける生徒がいます。ところが、「二次方程式 X−3X−10=0 と、不等式 2X+4>X+7 の両方を満たすXを求めなさい。」という問題は習っていないから分からないといいます。
 A子さんは数学と理科がクラスで一番の成績をとっています。妻がそのことを知ったとき非常に驚き、現在の若者の学力が落ちていることにやっと気づきました。それまでは、私がいくら現在の若者の学力低下について話しても、 「そら、自分と比べてもしやあないわいな。」といって、信じていませんでした。
 私は決して、中高生だったときの自分と、現在の生徒を比べているわけではありません。そもそも、私自身むしろ劣等生で、公立中学でテストの点が平均点に達していなかったのです。たとえ現在日本で一番の学力の生徒が、私が中高生だったときよりも学力が低かったとしても、平均があまり変わっていないとしたら、それほど大きな問題ではないでしょう。
 「100÷2=5」と書き、間違っているから直すようにいっても、正しい答が分からない高校生がいることや、以前の小学校低学年程度の国語力しかなく、ほとんど日本語の読み書きが出来ない生徒が、某一流短大に国語一科目で受験し合格すること、つまり合格しなかった生徒はまったく読み書きができない完全な文盲であるということを問題にしているのです。西暦1997年の次は1998年だと分かるのに、1999年の次は何年になるか分からない中高生が多くいることが大きな問題なのです。
 A子さんが数学と理科で一番の成績をとっていることに妻が驚いたのは、以前ならばA子さんはむしろ数学が苦手なタイプで、せいぜい平均程度の成績しかとれていなかっただろうからです。私は数学的な考え方を教えているために、応用力がない他の生徒の中にあって、クラスで一番をとれるようになったのです。
 現在の中高生達は応用力がないだけではありません。基礎力も著しく低下しています。ある生徒はどんなに簡単な問題であっても図形の問題が解けません。どうやら長さとか、角度という意味を根本的に理解していないようなので、私が紙に線分と角度を描き、定規と分度器を渡し、線分の長さと、角度を測るようにいうと、分度器をあて長さを測ろうとし、定規で角度を測ろうとしました。
 彼は「F高校は、アホの行く高校やから、E高校に行く。」といってE高校に進学しました。この生徒が「アホの行くF高校」という「xx県立xx高等学校」が日本には存在するのです。
 知的障害のある生徒が私の塾に三年間通っていましたが、その生徒は養護学校ではなく、F高校に進学し、健常者の多い中で成績優秀者として卒業しました。
 平均以上の学力の生徒であっても、ちょっと考えればわかるような問題で「習っていないから分からない」という言葉が生徒の口からよく出ます。
 現在の若者は頭を使うことを嫌います。
 大学の後輩で公立大学の助教授をしている者が「今の学生はまったく頭を使おうとせん。あいつらほんまアホや。教えんの嫌になりますわ。」といっていました。
 以下に群馬大学名誉教授の高木貞敬先生の著「脳を育てる」 (1996年岩波新書)から引用させていただきます。

テレビの見方 その悪い影響
 テレビが私たちに与える影響のよい面、悪い面については、すでに多くの人々によって議論されている。ここでは、その悪い面を脳の立場から考えてみたい。
 テレビは目と耳という、人間に上ってもっとも影響カの大きい二つの感覚器官を同時に刺激して、脳の奥深くまで情報を送りこんでくる。それは一回限りの一方的な情報の押しつけで、 見る人は何をする必要もなく、自分でものを考える働きを停止して、ただじっとその押しつけを受け入れていればいいのである。何か考えたりすると、筋書きがわからなくなるから、ただ受け身の姿勢で、テレビの画面に注意を向けていればいい。たとえなにか変だと思っても、抗議しても、テレビは筋書きどおりどんどん進行するから、見る人はいちいち反応する気持ちを失い、しだいに「ものを考えるカ」、つまり二ユーロンの連絡網の独自の働きをなくしてしまう。
 また、テレビの番組では三十分とか一時間という時間内に話をまとめなげればならないから、話をはしょってどんどん進めていく。そのため、内容はだれにでもすぐわかるように、ひじょうに単純な筋書きにつくられている。その結果、話はどうしても深みのない浅薄なものになってしまう。じっくり考えなげればわからないような番組は視聴率が下がるから、テレビ局はほとんど放映しない。また、ラジオのように場面を想像する働きをも奪ってしまう。
 このような番組を見て育った若者はどうなるかということについて、東京大学名誉教授の木村尚三郎氏の注目すべき記事を読んだことがある。私見を交えて紹介したい。

 今日、時代の流れはきわめて速く、つぎつぎと大きい変化がおこるので、大学で習った知識は卒業してまもなく古くなって役に立たなくなるということもあるほどである。そこで大学の教官としては単に知識を与えて暗記させることよりも、自分で考え、自分で解決の道を見つけられるようこ、脳を訓練し、磨きあげることを目指すことになる。そこで教官は、講義のなかで学生に問題を与えて、学生にその解答を考えさせようとする そのためには 教官は講義を中断してしばらく待つ必要がある。すこし前の学生なら、中断の時間のあいだに、それぞれ自分の頭であれこれと考えて答えを見つげようとしたものである。ところがテレビで育った学生は、自分で考えよと言われても、何をどう考えていいかわからないのである。
 そのうちに、その時間をもてあました結果「だって先生、どうせわかっていることなら教えてくれたほうが早いじゃありませんか」という発言が学生から飛びだしたというのである。
 「出し惜しみをするな、とでも言いたげな顔をわたしはまるでべつの星からきた人のようにまじまじと眺めたものであった」(「 」内は木村氏の記事の引用)。まさに新人類が出現してきたといってもいいほどである。彼らはただ教師が答えを言うまで何も考えないで待つだけなのである。まさに「指示待ち」人間である。
 彼らは肉体は成長しても、自分ではものを考えられないから、他人の言うことを受け売りすることしかできない幼稚な人間となっている。やがて日本社会は、このような軽薄で幼稚で自主性のない人間でいっぱいになるのではないか。「テレビは一億の日本人を総白痴化する」という名言を大宅壮一氏は残したが、その予言を裏づげるような人間が増加しているのを見るとき、ここに強力な独裁者の出現を許し、また独裁者をもとめる精神的土壌が生まれ、民主主義が減びる可能性があることになる。それを思うと、日本の将来に暗澹たる思いを禁じえないのは私一人ではないであろう。

 頭を使わなくなったのは、学カの低い若者だけではないのです。東大の学生でも自分の頭で考えられないのです。オーム事件を起こしたのも、多くが自分で考えることのできない一流大学出身者でした。
 一流大学に進む者でもこれですから、就職も進学もしたくないと思っている高校生が頭を使うはずがありません。私が高校生を特に問題にするのは、過半数の若者の最終学歴が高校だからです。
 高校生のうち、大学や短大に進学できるのは半数に足りません。現在、高校卒業後就職するものは少数派になっています。多数の高校卒業生が、なんの目的もなく専門学校に行ったり、なにもせずぶらぶらしたりしています。彼らは自分で考えるということを極端に嫌います。頭が悪いから考えられないのではありません。そもそも頭が良くなりたいとは思っていないのです。
 学校の成績が五段階評価の1や2の中学生に1から5の成績のうちどれを取りたいか尋ねると、3がいいと答える者が多いのですが、これなども昔なら信じられないことです。4や5は取りたくないというのです。私が、この知力トレーニングを行なえば知能が高くなり、これを行なえば記憶力が高くなると説明しても、記憶力はちょっどだけ良くなりたいが、頭は良くなりたくないといいます。
 私は、先日友人と話をしていましたが、友人は日本の将来を憂えていました。大卒の新入社員七人に「嵐が丘」を読んだことがあるか尋ねると、だれも読んでいなかったということを嘆いていたのです。彼は現在の日本の若者の現実をまったく理解していません。 「嵐が丘」を読んだことがあるかどうかではなく、宿題や受験勉強以外の目的で、本を読んだことがあるかどうか尋ねるべきだったのです。
 全国の高校生から無作為に七人選んだとします。マンガ以外の本を一冊でも自分の意志で読んだことがあるのは、いたとしても一人だけで、おそらく自分の意思で本を読んだことがある者は七人の中にはいないだろうと思います。
 高校生の半数はある程度本を読む能力があるかもしれませんが、読書により向上しようとか、読書が楽しいと思う者はまれです。
 「自分ではものを考えられず、独裁者をもとめる精神的土壌が生まれ、民主主義が滅びる可能性」を象徴することがあります。民主主義という言葉自体をまったく知らない高校生が存在するのです。民主主義とはどんなものかをその生徒に簡単に説明し、日本が民主主義の国なのか民主主義ではない国なのかと質問され、私は悩んでしまいます。民主主義という言葉を知らない高校生のいる社会は本当に民主主義なのかと。
 第二次世界大戦で日本がドイツを相手に戦ったと思っている大学生が多いそうです。独裁者の登場を警戒するということは、決して被害妄想ではありません。これからの日本では、独裁者に立ち向かう覚悟を本気で持つ必要がありそうです。
 学校では陰湿ないじめが間題になっています。自分の頭で考えることのできない子供たちは、多数で一人をいじめてもいい、それが民主主義だとでも思っているのかもしれません。
 独裁者は、自分が民主主義を守る正義の味方だと唱えるものです。民主主義を理解できない民衆はその言葉を信じます。学校でのいじめ問題は、若者達が全体主義を指向している兆候なのかもしれません。
 私が塾の中学生に、「先生なんでおこらへんの。先生何したらおこるのん。」と聞かれ、 「いじめをしたらおこるぞ。場合によっては、人を殺したとしても許すかもしれん。せやけど、いじめだけはどんなことがあっても絶対に許さんぞ。いじめをした奴はこの俺がどつきまわすぞ。」というとみんな納得し、その後「先生、いじめられてる子がおったから、助けたったで。」といいます。私が「あいつら」と呼んでいる生徒達で、可愛いいやつらです。
 また、私が「法律で禁じられてるけど、酒や煙草くらいではおこらへん。法律で禁じられてへんけど、ピアスはしたらあかんぞ。なんでか分かるか。」というと、 「あいつら」は「自分の体を傷つけるから。」とかいいますが、 「そんなんちゃう。男は理屈やない。俺はピアスしてる奴が嫌いやからや。わかったか。」というと、ピアスをやめます。生徒は一人の人間の言葉に、こんなにも影響を受けるのです。独裁者が生まれる土壌は十分育っているのです。
 こんなことを書くと、私は生徒達に押しつけが強いように思われそうですが、その逆で、私の塾では生徒の自主性にまかせています。宿題も一切出しません。私はみんなに自分の頭で考えられる人間になって欲しいのです。生徒同志が授業中話をしていても、よほどのことがないかぎりほうっておきます。ごくたまに「くぉら、黙らんとどつくぞ。」と軽く注意するくらいです。学校の成績が低い生徒であるのに、授業中おしゃべりをしている生徒は、しばらくすると、 「この先生おこらへんから、自分らで抑えなあかん。しっかり勉強しょう。」といって、おしゃべりをやめます。子供たちは、指導方法によっては、自主性を持つようになるのです。

日本の教育の再出発
 公立中学の教師に父兄が、 「なぜ塾に行かせないのか。塾に行かなければ高校に行けないですよ。」と脅されたので、私の塾に来たという生徒がときどきいます。「勉強は塾で習え。学校は服従を教える場だ。」とか、 「学校のテストでどの塾が良いか分かる。」と公言する教師もいると生徒から聞きます。自分の嫌いな生徒の内申書を操作し、高校に行けなくするなど、公立中学の教師に関しては、耳を洗いたくなるようなおぞましい話が多いのですが、ここではあまり触れないでおきます。
 阪神大震災等災害時の政府の無策ぶり、パプル経済の放置や長引く不況での政治家や官僚の怠慢、薬害エイズ事件、莫大な財政赤字、国会議員の詐欺事件、原子力施設での事故隠し。よかれあしかれ、戦後の日本を引っ張ってきた政治家や官僚が現在ではこの有様なのです。政治家や官僚が腐敗したからではありません。政治家や役人の腐敗は、いつの時代にもあることです。国のリーダーが愛国心と責任感を失ってしまったのです。この国のことに無関心になってしまったのです。若者の学力が落ちるのも当然です。
 この二十年間、文部省は「ゆとり教育」と称し、学校で習うことを大幅に減らしてきました。子供達に多くのことを教えることは、脳の発達のためにはどうしても必要なことなのですが、生徒の知識に差ができるのは差別であるといって、クラスで最も成績の低い生徒でも理解できる範囲のことだけを教えるようになりました。ところが、それだけ学習量が減っているにも関わらず、半数の生徒はそれも理解したり、覚えたりできない状況です。この二十年間で、日本の子供の知能指数は二十以上下がっていると思われます。ダイオキシン等が原因とも考えられますが、「ゆとり教育」によって、脳の発育が妨げられていることも大きな要因です。
 準封建社会の江戸時代の日本が、明治になり近代化に成功したのは、江戸時代、既に武士や町民の間で教育がさかんであったのと、維新後世界に類を見ない平等な教育制度を作り上げたからです。太平洋戦争敗戦の廃虚の中から、世界で最も豊かな国のひとつになれたのも、国民の教育水準が高かったからです。戦後の成長期には、義務教育しか受けなかった末端の人達が、自らの意志で創意工夫を凝らし。生産性を高めるのに大きく貢献しました。
 これまでに述べてきたことから、現在の日本の教育がどういう状況か、お分かりいただけると思います。
 教育は、全国民が真剣に考えなければならない重要な問題です。民間企業の優秀な社員を公立中学に一年間教師として派遣するとか、教師を一年間民間企業で研修させるといった制度を設けたり、内申書を廃止するだけでもかなり改善されるはずです。
 「最近の若い者は」という言葉は使いたくありません。自分も若者だと思っています。ケネディ大統領の演説にあるように、 「我々は暗闇をのろうためにここにいるのではない。我々は明りを灯すためにここにいる」のです。 「強者が正義を持ち、弱者がやすらかに暮らせ、平和が保たれた公正な新世界を建設しよう。これらすべては最初の百日では達成されないかもしれない。最初の千日でも達成されないだろう。あるいは多分、この惑星に我々が住んでいる間には達成されないかもしれない。しかし、我々が始めよう。国が国民に何を与えてくれるかを望むのではなく、自分が国のために何ができるかを間い直せ。」
 まずは大人達が責任感、倫理感、正義感、理想、希望、夢、自信を取り戻しましょう、大人達が希望を持ち、元気になれば、若者達も未来を任せられる人間に成長するのです。

エルピス=希望
 紀元前333年、マケドニアのアレクサンドロス王は、東方遠征の途につく前、王室財産のほとんどを部下に分け与えてしまいました。心配した部下が「王はご自身に何を残されるのですか。」と尋ねると、王はただ「希望(エルピス)」と答えました。部下たちはいいました。 「よろしい。それでは我々にも。その希望を分けていただきましよう。」
 私は結婚して三ヶ月もたたないうちに、それまで勤めていた会社をやめようと決心しました。妻にどんなあてがあるのか尋ねられ「あてはない。金がない、コネもない。あるのはただ頭と希望だけ。」と答えると、妻はそのことばが気に入ったと同意してくれました。会社をやめるとき、何をするか決めていませんでした。ただ、その時を逃したら、一生を無意味に終わってしまいそうに感じたのです。私の口癖に「世の中、そんなにからくない。」というのがあります。その後「エルピス塾」を開き、なんとか今まで生きてきました。
 本書で紹介するエルピス式知力トレーニングは、希望から生まれたものです。最近プラスイメージを抱く重要牲をよく耳にします。エルピス式知力トレーニングを続けていただければ、自然と明るい気分になってきます。
 ここまでに読んだことから、エルピス塾の生徒達はさぞや入試で落ちているだろうとお思いでしょう。しかし、大学受験の合格率が八十パーセントにも達するのです。偏差値が十や二十足らないのはあたりまえ。中には偏差値が三十足りなくて合格した者もいます。希望を持った者は成功します。
 私には夢があります。肌の色に関係なく、世界中の人々が人間と人間として付き合える世界。私には夢があります。戦争という愚かな行為を昔人間が行なっていたということを回想する世界。私には夢があります。自由は空気のように、あってあたりまえだと全人類が感じることのできる世界。私には夢がある。飢える者のいない世界。私には夢がある。すべての人が他人の権利を尊重する世界。私には夢がある。すべての人が平等で、その能力を発揮できる世界。私には夢がある。弱者が安心して暮らせる世界。私には夢がある。若者が大志を抱き、希望に満ちた世界。私には夢がある。人類の進歩のために科学が発展を続ける世界。私には夢がある。政治家や公務員が自分のためではなく、みんなのために使命感を抱き懸命に働く世界。私には夢がある。医者が金儲けではなく、病人を出さないことを願う世界。私には夢がある。学校の教師が信念に基づき生徒を教育し、尊敬をこめて先生と呼ばれる世界。私には夢がある。犯罪が毎年減少する世界。私には夢がある。公害のない世界。私には夢がある。国境のない世界。私には夢がある。伊勢海老を腹いっぱい食べること。私には夢がある。香港にうまいものを食べに行くこと。私には夢がある。熱燗を呑みながら庭の茶室に寝転がって花見をすること。 私には夢がある。世界連邦の初代大統領になること。
 私には夢があります。今のところ、まだ私は成功していません。しかし、やがて私は成功します。私には希望があるからです。
 上を向いて歩こうよ。涙君さよなら。ばらが咲いた、僕の心に。明日という字は明るい日と書くのよ。明日に架ける橋。友よ、夜明けは近い。君の行く道は希望へと続く。さあみなさん、ご一緒に希望の歌を高らかに歌いましょう。
 どうぞ、ここに書かれていることを読んで笑って下さい。しかし、その笑いは冷笑であってはなりません。他人をあざける者は成功しません。相手がどんなに自分より低いと思っても、その人の人格を尊重しましよう。他人の人格を尊重できる人は、みんなから尊敬され、成功します。私がいっていることが受け入れられないなら、受け流して下さい。他人のことばを受け流せる人は、みんなから尊敬を受けます。
 人間は楽しいから、うれしいから、おかしいから、心の底から笑うのです。笑う門には福来たる。笑顔の中から成功は生まれます。癌末期の患者でさえ、笑いにより免疫力が高まり、長く生きることができます。心の中から鬼(マイナスイメージ)を追い出し、福(プラスイメージ)を呼び入れて下さい。さあご一緒に、鬼は外、福は内。
 「私には夢がある。」あなたも心に描いて下さい。自分が会社で出世するとか、志望大学に合格するとかで結構です。最低三つ、次に続けて下さい。
 私には夢がある。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
 私には夢がある。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
 私には夢がある。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

エルピス式知力トレーニングによる脳の開発
 私は、自分が開発した能力開発法を「エルピス式知力トレーニング」と名付けました。
 最初は「エルピス式能力開発法」と呼んでいたのですが、 「エルピス」とか「能力開発法」というと、どうも宗教と間違えられるのです。
 知力トレーニングといっても、ただの頭の体操ではありません。さまざまな図形を用いて、普段使っていない脳を使えるようにするのです。スポーツ選手がトレーニングにより、筋肉を鍛えるように、脳も鍛えることが可能です。知力トレーニングを続けていくと、筋肉が動くのを感じるように、脳が動くような感覚が出てきます。 「あっ、今左脳前頭葉が刺激されているな。」とか「右脳側頭葉が反応している。」と感じるようになってきます。
 本書には「人類右脳進化」という題をつけましたが、私は脳についてはまったくの素人で、右脳を「みぎのう」と読むのか「うのう」と読むのかさえ知らないくらいです。ただ、右脳も開発できる方法を発見したというだけです。ここで注意していただきたいのは「右脳を」でなく「右脳も」ということです。エルピス式知力トレーニングは、普段使われていない脳のさまざまな部分を開発します。その中で右脳は大きな割合を占めていますが、開発するのは右脳だけでなく、左脳の未開発の部分も含みます。
 私は脳の専門家ではありませんので、本来ならば沈黙を守るべきなのですが、ある程度脳のことを知っていただいたほうが脳の開発がスムーズに進みます。以下に述べることは確立された学説ではなくて、多分こうなっているのだろうと、私が考えている仮説だとお断りしておきます。専門家の皆さんは以下に述べることを取り上げて、「人類右脳進化に〜と書いてあるが、あれは間違いだ。」と批判しないようお願いします。


 脳といっても、小脳、中脳、大脳等があり、大脳は右脳半球と左脳半球が完全に分かれ、両半球は脳梁でつながっています。大脳左半球は言語的、論理的情報を扱い、右半球は視覚的、直感的情報を扱っています。左右の半球はそれぞれ前頭葉、頭頂葉、側頭葉、後頭葉に分かれ、各葉の中もそれぞれの働きにより〜野(や)と細かく分類されています。
 人間の知力活動は氷山に似ています。氷山は海上に姿を現しているのはほんの一部で、大半は海面下に沈んでいて見えません。同じように、人間の知カ活動のうち、意識されるのはほんの一部で、大半は無意識の領域にあります。
 人間の意識は大脳左半球の言語中枢に宿ってます。言語中枢がコンピュータ、のCPUのような働きをしており、CPUが他のメモリやサブプロセッサと情報を交換し、全体を管理しているように、言語中枢が無意識下の脳の他の部位から、外部の情報や記憶を必要に応じ引き出したり、情報を記憶するよう命令を発していまず。また言語中枢以外の部位にも下位意識があり、自らの判断で必要な情報を言語中枢に伝えています。ただし、下位意識はあくまで無意識の領域にあり、人間に意識されるのは言語中枢の活動です。
 右脳は言語処理を行なっていないために能力に余裕があり、左脳の何千倍もの情報を処理することが可能です。人間が意識するのは脳全体が処理している情報のごぐ一部だけです。
 一部の天才の場合、右脳が発見した理論が脳梁を通って左脳の言語中枢に伝わりますが、普通の人は右脳の知的活動が意識されません。
 あるいは、人間の知力活動は海上に浮かぶ島に似ているのかも知れません。氷山は見える部分がその一部だといっても、それぞれの氷山は別個のものです。島は氷山に似ていますが、すべての島は海の下ではつながっています。すべての人間の心、あるいはすべての生物、もしかするとすべての物質は、その一番下ではつながっているのかもしれません。
 もしもそうだとしたら、人類右脳進化が始まったとき、一部の人間だけではなく、全人類が一斉に超脳者へと変わることになります。


 ここで言語中枢が大脳左半球にあると述べましたが、普通は左脳にあるというだけです。
 右利きの人の九割、左利きの人の七割が左脳に言語中枢がありますが、右脳に言語中枢がある人も当然いますし、左右の両方に言語中枢のある人もいます。
 これから「左脳優位の人」という言葉を使いますが、言語中枢が左脳半球にある人という意味です。
 ご自分が左脳優位か、右脳優位かを知るには、電話で話をする際に、右耳に受話器をあてたほうが相手の話を聞き取りやすいか、左耳にあてたほうが聞き取りやすいか考えて下さい。左右の聴力に差がなくて、右耳のほうが聞き取りやすい場合は左脳優位、その逆に左耳のほうが聞き取りやすい場合は右脳優位と考えればよいでしょう。
 左脳優位の人が、余裕のある右脳を自由に使えるようになれば、驚異的な能力を持つことになります。まさに人類右脳進化です。
 これからさまざまな知力トレーニングを行なっていただきますが、さあ右脳を開発するぞという気構えでトレーニングを行なって下さい。ただし右脳優位の人は左脳を開発します。

知力トレーニングの効用
 前に「13−9=」を五分間じっとみつめている高校生についてふれました。一ヶ月後、彼に「(3X+7y-5)(3X-7y+5)を展開せよ。」という問題を与えると、(3X+7y-5)(3X-7y+5)={3X+(7y-5)}{3X-(7y-5)}=(3X)-(7y-5)2=9X2-49y2+70y-25とすらすら解いていきました。これくらい誰でも解けるとお思いになるかも知れませんが、現在の高校生でこの間題が分かる者は少ないのです。
 彼に何が起こったのでしょう。もちろん、知力トレーニングを行なったのです。彼は一ヶ月間ほほ毎日「ハイパーブレイナー」のトレーニングを続けました。残念ながら一ヶ月でやめてしまい、その後はほぼ元の能力に戻ってしまいました。毎日数分間の知力トレーニングを続けるのは難しいのかもしれません。
 知力トレーニングの効果は勉強だけに限りません。
 義母の右手がほとんど動かなくなり病院に行っても治らないのが、 「ナインボックス」を行なって数分後に動かせるようになりました。また、歩けないほど足が痛くなったとき、「ダビデの亀」のトレーニングにより、すぐに痛みがなくなりました。
 妻が寝違えて腕が上がらなくなったとき、 「ダビデの亀」を行なわせた途端に腕が上がりました。それまでは「何が亀よ、こんなもんどこがええのん。」といっていたのですが、「ダビデの亀」の効果を認めるようになりました。
 私自身左腕を脱白骨折し、お医者さんはギブスがとれた後も骨がくっつくかどうがわからず、リハビリが必要で、腕が以前のように曲がることはないといつていたのですが、ギブスをとった次の診察で「あれっ、腕が曲がる。骨がくっついている。治療完了。」と驚いていました。今では左右の腕がまったく同じように曲がります。
 また、知カトレーニングを毎日続けると、風邪をひかなくなり、疲れにくくなります。
 昔から禅僧や茶人は長寿だといいます。普通の人よりも右脳をよく使うからです。右脳を開発すると、長生きできます。
 最近、若年性痴呆症の患者が増えています。四十代、五十代の働き盛りのサラリーマンが、ある日突然言葉を忘れ、喋べれなくなるのです。若年性痴呆症の患者をCTスキャナーで調べると、右脳への血流が減ってしまっています。事務系のサラリーマンは仕事で脳の限られた部分しか使わないために起きるのです。
 効能書きを並べましたが、良薬と同じで知力トレーニングにも副作用が一つだけあります。知力トレーニングを毎日数分間行ない、効果が出た場合は最初の一週間ほど風邪に似た症状となり、微熱が出ます。いわゆる知恵熱というもののようです。ただし、それほど重い症状ではなく、学校や会社を休むほどではありせん。
 「ハイパーブレイナー」を開発した当時、あまりにも効果が大きいのでなにか副作用がないか心配し、一日に五回以上「ハイパーブレイナー」のトレーニングを行なわないようにいっていましたが、副作用は以上のもの以外は気分が明るくなり、若干楽しくなりすぎる程度で、むしろこれは短所ではなく長所でしょう。気分が沈んで「死にたい」といっている者が、 「ダビデの亀」のトレーニングを行なった後すぐに鼻歌を歌いだすこともあります。「ダビデの亀」のトレーニングの方法は第一章「記憶力を五倍にする知力トレーニング」に書いてありますが、記憶力を伸ばすだけではなく、人間に活力を与える効果があります。
 その他の知力トレーニングについても同様で、便宜上、記憶力、読書能力、健康と分けているだけで、それぞれの知力トレーニングには様々な効果があります。
 皆さんになぞなぞを一つ出します。「使えば使うほど、長持ちするものなあんだ?」答は脳です。脳は使わなければ退化し、萎縮していきます。頭を使う必要がある人はもちろん、頭を使う必要がない人も健康と長生きのために本書の知力トレーニングを実際に毎日行なって下さい。

ナインボックス

100

 

70

40

10

 

7

4

1

200

 

80

50

20

 

8

5

2

300

 

90

60

30

 

9

6

3


 上図が、私が知力トレーニングを開発するきっかけとなった、「ナインボックス」です。これは、塾の生徒の読書速度を上げるために開発しました。読書速度を上げる以外の効果もあります。
 ここで、皆さんに一つの実験を行なっていただきます。
 まず、 「ナインボックス」の知力トレーニングを行なう前に、ご自分の住所と名前をどこかに書いて下さい。次に「ナインボックス」の使い方を説明しますが、それを読んでいる間に効果が出るかもしれませんので、今書いて下さい。
 住所と名前を言いていただいたら、次に「ナインボックス」の使い方を説明します。
 右側に電卓のキーのような数字が1〜9まであります。このキー1〜9まで順番通りに押すイメージを持って下さい。実際に押すのではなく、頭の中で押すイメージを持つだけです。
 9のキーを押すイメージを持ったら、左側の10キーを押すイメージを持ちます。また右側の1〜9を押すイメージを持ち、次は左側の20キーを押すイメージを持ちます。同様にして続けていき、左側の90のキーを押すイメージを持った後、右側の1〜9のキーを押すイメージを持ち、次は左側の100のキーを押すイメージを持ちます。その後はまた、1〜9、10、1〜9、20、‥、90のキーを押すイメージを持った後、右側の1〜9のキーを押すイメージを持ち、次は左側の200のキーを押すイメージを持ちます。このようにして300になるまで続けます。
 もう一度いいますが、キーを押すイメージを持つのは1〜9、10、1〜9、20、‥、90、1〜9、100、1〜9、10、1〜9、20、‥、90、1〜9、200、1〜9、10、1〜9、20、‥、90、1〜9、300までで、合計三百個のキーを押すイメージを持って下さい。スピードをだんだん速めていったほうがいいでしょう。
 使い方が分かったら、実際に「ナインボックス」のトレーニングを行なって下さい。
 「ナインボックス」のトレーニングを行なったら、先程と同じように、ご自分の住所と名前を書き、トレーニング前に書いた字と比べて下さい。
 いかがでしょうか、後で言いた字のほうが整った字になっているはずです。気分はどうでしょう。頭の中がすっきりした感じになっているでしょう。
 お知り合いの方で、手足が動きにくくなった方がいらしたら、ぜひこの「ナインボックス」を紹介して下さい。手足が動きやすくなるはずです。

その他の知力トレーニング
 「ナインボックス」の開発後、人間の能力を高める方法がもっとあるはずだと確信し、図形を使ったさまざまな知カトレーニングを開発してきました。
 その中でも特に効果が大きいのは第一章で紹介する「ダビデの亀」と第二章で紹介する「ハイパーブレイナー」です。この二つは効果が大きいのですが、効果が出ない人もいます。「ナインボックス」の場合はほとんどの人に効果が出ますが、 「ダビデの亀」や「ハイパーブレイナー」ほどの大きな効果はありません。第一章と第二章で、書かれている効果が出なかった人は、本書を最後まで読み、すべての知力トレーニングを行なった後再度挑戦して下さい。
 知力トレーニングに使われているさまざまな図を見て、こんな図をどうやって考えたのだろうと疑問に思われるでしょう。すべての図は、こんな効果のあるものが欲しいなあと考えながら、近所の温泉につかっているときや、道を歩いているときに、ほぼそのままの形が頭の中に浮かびそれを描いたものです。 「ダビデの亀」の場合は、図ができた後それをどうやって使ったらいいのか分からなかったのです。現在の使い方を発見するまで半年もかかりました。神様が教えてくれたとしかいいようがないのです。 「ダビデの亀」の図を描く前には「神さんが亀作れいうてはるけど、なんのこっちゃろ。」といっていました。私の右脳が考え付いたのか、本当に神様が教えてくれたのかわかりませんが、私の左脳が作ったものではないことは確かです。
 この文章を書いている時もそうです。前に脳についての仮説を述べましたが、それまでに考えていたことではありません。書いているときはそう思ったのです。後で読み返してみて「ふうん。意識は言語中枢にあるのか。ひょっとして、そうかもわからん。多分ちゃうやろなあ。まあ仮説やからええやろ、許したろ。」と他人が書いた文章を読んだように感心しているのです。世の中には不思議なことがあるものです。

2001年右脳の旅
 これから皆さんに二十一世紀を先取りして、人類右脳進化の旅に参加していただきます。
 第一章では、記憶力を数時間以内に現在の五倍に伸ばし、第二章では、数時間以内に読書速度を現在の四倍にします。そんなことは不可能だとは考えないで、書かれていることを実際に試して下さい。既存の能力開発法と違い、七割の人にはそれだけの効果が出ます。
 目標の効果が出なかった人でも、毎日知力トレーニングを続けると一ケ月以内には目標に達するでしょう。
 第四章ではさまざまな方向から脳を開発し、脳の使える領域を広げて病気に対しての自然治癒力を高めます。
 第五章ではより能力を高め、超脳者となることを目指します。ただし第四章までとは異なり、これを達成できる人は限られた少数者になるでしょう。
 ほとんどの人にとっては、本書により記憶力を現在の五倍に伸ばし、読書速度を現在の四倍にするだけですが、これはほんの序の口です。今後本格的な知力トレーニングが生まれ、全人類による人類右脳進化が達成されることでしょう。
 まずはあなたが人類右脳進化に参加して下さい。やがて若者も後に続くでしょう。
 高校生の平均国語力が、以前の小学六年生程度にまで回復し、それがやがて中学三年生の学カとなり、以前の高校生と同じ程度になり、ついには高校生の学力が過去最高となるのはそんな遠い未来のことではないと私は信じています。
 私は信じています。日本の高校生の大多数が書物を読んで理解できる日が来ることを。
 私は信じています。日本の子供達の目が、終戦時の日本の子供達や現在のインドの子供達の目のように、明るく輝く日がきっとやってくると。
 もしも、坂本竜馬が今生きていたらこう叫ぶでしょう。

「日本の夜明けは近いぜよ!」